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H028臺灣太姑陥草賊抵抗之圖

 

清親 印(清親)                    函館市中央図書館 蔵 

 

明治廿八年十月 日印刷

臨写印刷兼(発行者) (井上吉次郎)日本橋区本町二丁目十番地 括弧内は推測

 

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函館市中央図書館での分類は以下の通り

タイトル

台湾太姑陥草賊抵抗之図

内容説明

 

著者

小林 清親/画

出版者

井上吉次郎

出版年月

189510

ページ数

3枚続

サイズ

35×24cm

請求記号

EE721.8コハ

資料番号

1114234121

明治のリネーム商法

リネームというのは、アパレルの廃棄が社会問題と指摘されるようになってきたことから、アパレル業界のサステナビリティを実現するためにはじめられた取り組みの一つである。アパレル加工工場でブランドタグや洗濯表示タグの付け替え加工を行い、ブランド名表示を変更して再販することをリネームというらしい。同じことが、明治時代にも行われていた!?

『揚村偵察隊匪徒攻撃』

この『臺灣太姑陷草賊抵抗之圖』の後日談がそれだ。同じ版木を使用して5年後に再度販売されているのだ。タイトルは『揚村偵察隊匪徒攻撃』スミソニアン博物館フリーアサックラーギャラリーに収蔵されている。

最初にこの版を発見したときは、「トリミングされていないので、そこから情報を得ることができる」と思ったのだが、残念ながらタイトルを変えての再販売だった。もったいない精神や、持続可能な社会の実現をめざすという志よりは、いつも画題を探している版元のアンテナにうまくキャッチされただけのようだ。日清戦争から5年経った1900年に義和団事件の画として、再利用されていた。

 

函館版の『臺灣太姑陷草賊抵抗之圖』に描かれている事件は1895年7月に台北と新竹を結ぶ補給路を確保するために行われた作戦である。総督樺山資紀が台湾平定宣言を出すのは11月をまたなければならない。詳しくは後段で述べる。

一方FS版の『揚村偵察隊匪徒攻撃』は1900年の事件。義和団の乱(北清事変)の起こった年でこの錦絵が制作されたであろう九月には北京が開放されるなど、最終段階にあったようだが、タイトルに有る揚村は天津市の北西部の村だ。つまり、8カ国の連合軍が北京で籠城状態になった自国民を救うために天津から北京に進軍するわけだが、その途中にある村のことである。進軍中に遭遇した義和団兵との戦いがテーマとなっている。

 

函館版は草賊側の人物の肌の色が浅黒く、南方を強調しているのに比べて、FS版は匪徒の肌の色を薄くして、北部大陸の雰囲気を出しているあたり、また、全体のコントラストも函館は濃い南方の感じ、FSは薄い北方の感じという工夫をしている。とはいっても、草の生い茂る水際に半裸でいる匪徒は肌が白くとも違和感があるし、植生も椰子の木のようなものはそのままだ。

 

義和団事件の時の台湾に関しては、当時台湾を領有していた日本が対岸の厦門占領を閣議決定し(首相・山県有朋)勢力拡大をはかっている。厦門市内の東本願寺の消失をきっかけに台湾駐屯部隊を厦門に派遣・占領しようとしたが、英米独の抗議により中止したそうだ。

『臺灣太姑陷草賊抵抗之圖』の背景

函館版の『臺灣太姑陷草賊抵抗之圖』の詳細は以下の通り。

下関条約で日本が新領土として獲得した台湾は下関条約が締結された1895年4月17日までの時点では戦場となっていない。そして初代の台湾総督となった樺山資紀がその新領土に簡単に足を踏み入れたかというとそうではない。清国側は台湾受渡委員を派遣し、樺山資紀と横浜丸船上で会談の上、書類を交わして外交上の手続きは6月2日に完結した。つまり樺山はまだ上陸できていないのだ。一方、台湾割譲の決定を聞いた台湾巡撫唐景崧は遡る5月25日に台湾民主国を成立させた。三国干渉による遼東半島返還を聞いて台湾にも干渉がないかという期待を持っていたようだ。民主国成立を聞いた樺山は受渡調印前の5月29日に三貂角という台湾島西北部に近衛師団を上陸させる。北白川宮を師団長とする近衛師団は劉永福の組織する黒旗兵と一部台湾人による抵抗を跳ね返しながら基隆・台北へと向い、北部の主要都市への入城は比較的早期に進んだが、その後の掃討戦では各地で激しい抵抗にあうこととなった。それに対応した増軍の結果、台湾全島が平定されるのは11月18日の樺山の出した台湾平定宣言発布を待つこととなる。

日本政府の公文書では台湾平定作戦、台湾征討と呼称される。日清戦争の一部とみなされるが、乙未戦争という呼び方もある。

 

この画題にある太姑滔とは大渓区(ダーシー/たいけい-く)の旧称である。ウィキペディアによると「大渓区は古くは「大姑陥」と称されていた。これはタイヤル族の言語で「大水」を表す言葉である。乾隆年間、漳州からの入植者が大漢渓を遡りこの地にいたり開墾を開始した。漢人にとり「陥」という字が不吉であり、また地形が窪地になっていることから「崁」の文字を使用するようになり「大姑崁」と称されるようになった。同治初年この地方出身の李金興、李騰芳、為彰顕などが科挙で優秀な成績を修めたことから「大科崁」と改称された。光緒年間には巡撫劉銘伝はこの地に撫墾総局を設置し、「大科崁」を「大嵙崁」と改めた。その後日本統治時代の1920年、地勢に因み「大渓」と改称され現在に至っている」ということだ。つまり、太姑陷=大姑陥=大姑崁=大科崁=大嵙崁=大渓 となる。台北から南西に50kmの街である。『通俗征清戦記』によると台北の南、淡水河の上流にあたり、もともと原住民族の抵抗が激しかった地域に接していた。そこを鎮撫する役を負って駐屯していたのが餘清勝という清国の役人で、彼が投降してきたという記述がある。

以下、引用する。

 

「前略~そも太姑滔(陷)といえる地は淡水河の上流にありて、台北府をさること西南すべて七十清里、生蕃境を距る約十清里の所にある一村落なり。清廷は生蕃鎮撫として、総兵餘清勝に兵勇二千を授け、往きてこの地に駐屯せしめしに、餘清勝よくその職を守り、徳望いよいよ高く民皆悦服せりという。

餘清勝はこの度全島日本の領土となる上は、兵勇を引きて本国に立返るの外なしと、自ら心に決するものから、唐景崧の如き非望に組せず、書を師団長殿下に捧呈してここに帰順の意を表しぬ。師団長殿下には近衛の参謀長鮫嶋大佐と謀りたまい、太姑滔の敵情を詳かにせぬとて、田中騎兵中尉に一小隊の兵を附し、往いて太姑滔の敵情を偵察せしめたまう。

田中中尉は淡水河の流を渡りて太姑滔に達すれば、果たして餘清勝の言に違わず、土民は白旗を立てて中尉の一行を迎え、歓待等閑(なおざり)ならざりしかば、中尉は餘清勝等十三名を誘いて台北府へと戻りたり。~後略」

以上

通俗征清戦記(服部誠一 著、東京図書出版、明30.9出版)

317、318頁 第百三十回 台北附近の鎮定 より一部抜粋

 

餘清勝の陳述に関しては国立公文書館アジア歴史資料センターに保存されている䑓海報に記録されている。その文書によると、餘清勝は、明治二十八年六月十五日に出頭し恭順の意を示したとあり、その後の詳細な陳述覚書には、大嵙崁(=太姑滔)と表記されている。餘清勝はその大嵙崁の統帯総兵に任命され3年前に福州から渡ってきたとある。

 

再び、『通俗征清戦記』に戻り「第139回 太姑陥附近の大撃攘」という章を引用しよう。

 

「偽大統領唐景菘(とうけいそん)は、王師到ると聞くよりも、鼠の如くに遁行きたれど清将劉永福は、五千の黒騎兵に将として台湾の南部に籠り、王師に抗する有様なれば、直に南下してこれ討滅つせむと。将士の心は矢竹と逸れど、台北より新竹、及び太姑陥河一帯の地は、猶ほ我が王化に服せざる頑民を以て充され、我軍南下の兵站線を襲はむとする事度々なりしかば、先づ南征の手始めに、これ等の土匪を撃攘なさんと、ここに太姑陥附近の大撃攘行われたり。

去る程にこの度土匪大撃攘の命を蒙りたるは、山根少将の枝隊を主力として、歩兵第四聯隊、騎兵第二中隊の一箇小隊、工兵一中隊、衛生隊半部を附属せしめ、別に又二個枝隊を編成し、内藤大佐松原少佐を以て枝隊長とす。

内藤枝隊は、歩兵第四聯隊本部、並に第二大隊、騎兵第二中隊、砲兵第二大隊並に第三中隊、工兵一箇小隊を率ゐ、太姑陥河の右岸より、漸次三角湧(引用者注1)に向ふこととなりたり。

さても山根枝隊には、大撃攘の命を受くるよりも七月二十一日、部下の将校と会して、ここに軍議を開かれける。先づ列席の面々を見てあれば、陸軍少佐坊城俊章、枝隊参謀明石大尉、旅団副官田中大尉、聯隊副官赤松大尉、その他深堀、今田、莊司、本間の各中隊長、星の如くに居列たり。暫時は軍議を凝せし後ち、枝隊の内より林大尉の中隊を選びて、龍渾波(土偏)より進ましめ、内藤松原の両枝隊に力を協せ、四面より撃入ることに定まりて、土匪は袋の鼠となりたり。

翌くれば七月二十二日の一天山根混成枝隊は一軍整々として太姑陥を発しぬ。平素は威風凛々として肥馬に鞭打ち、硝煙弾雨の間を馳駆して、部下の貔貅(ひきゅう:勇ましい兵卒のたとえ、引用者注2)を叱咤操縦したる乗馬士官も、今日は悉く草鞋を穿ち、いずれも徒歩にて行進す、殊に砲兵は砲車を解き、砲身弾薬皆人肩に依りて運搬し、険悪極まりなき道路を踏むで先へ先へと押して行く。

行く行く敵を撃攘して、その日の黄昏とも思しき頃、三角湧を距る半里許の地に着し、前面に警戒を加えて、その夜は山間に露営をなしたり。

さても翌二十三日となれば、今日こそ四面合撃の当日なりとて、将士一入(ひとしお)勇立ち、払暁より交戦し、正午の頃全く三角湧を占領し、ここに人馬の息を休めたるに、二十四日に至り、林内藤松原の三枝隊より連絡通じ、四面より攻せられたる土賊共は、死を免るるもの僅にして、余は盡く天兵の誅に伏し、大撃攘の功全く奏せられたり。」

 

注1:三角湧は三峡区の旧称。三峡区(サンシア/さんきょう-く)は、台湾新北市の市轄区。

歴史

三峡は大漢渓、三峡渓、横渓の3本の河川が合流する地理条件から古くは三角湧と呼ばれていた。日本統治時代の行政改革の過程で日本語で発音が類似している三峡(さんきょう)と改称し、台北州三峡庄が成立し、これが三峡という地名の由来である。その後人口の増加により三峡街と改称し、戦後三峡鎮と名称が変遷した。2010年12月25日には台北県が新北市に改編されたことに伴い三峡区と改編され現在に至っている。

 

注2:貔貅(ひきゅう、「豼貅」と書くこともある)は伝説上の猛獣の名。一説には貔が雄で、貅が雌であるとされる。また、貔貅という語は一般に勇ましい兵卒のたとえとしても用いられる。

 

三角湧は太姑陥河下流で北東に台北の方向に戻った地域であるが、山に挟まれた難所である。台北と新竹の交通・補給線上の要所であった。乙未戦争年表(ウィキペディア)によると、

「7月13日:近衛歩兵第3連隊第6中隊の一個小隊、三角湧にて敵襲に遭い伝令として脱出した1名を除き桜井特務曹長以下34名全員戦死」

とあるので、それに対する反応だと思われる。台湾平定作戦における戦死者は164名ということなので、その5分の1を占める戦死者の数は大きな衝撃であったろう。この時期に大本営では増派を確定するが、全島平定は11月までかかった。

 

さて、再び『揚村偵察隊匪徒攻撃』である。義和団の乱(北清事変)の起こった明治33年(1900年)の手書きにも見える御届日が入っている。この錦絵が制作されたであろう九月には北京が開放されるなど、義和団の乱はすでに最終段階にあったようだが。タイトル中に有る揚村は天津市の北西部の村だ。つまり、8カ国の連合軍が北京で籠城状態になった自国民を救うために天津から北京に進軍するわけだが、その途中にある村のことである。連合軍の敵は清朝軍と義和団であり、旧式の武装の義和団兵は匪賊に近いとはいえこの画にあるような、半裸の兵隊ではない、残っている写真では寧ろ忍者のような装束である。タイトルを変更しただけでは通用しない違和感は他にもあり、背景の植生があまりにも南方すぎる、日本兵の軍装も色からして違う(他資料によると軍服は黒)、など多々ある。工夫としては匪賊の肌の色を褐色から→肌色に変更している点、また、肩からかけている布の色を赤茶色→水色に変更している点、背景の山脈を薄くして目立たなくしている、などがあるが、いかんせん追いつかない。銃後の庶民は戦地のリアルなど知る由もなく、違和感は持たなかったのかもしれない。季節的にはいずれも初夏から夏にかけての事件が画題となっていることは製作を後押ししたかもしれない。余談だが、初期に英軍が攻撃し清朝が宣戦布告するきっかけとなった天津郊外の砲台の名前が大沽砲台といい、日本軍もその大沽に上陸したというのは太姑陥を連想させて、もしやと思わせるなにかがある。

 

以下、参考文献

 

乙未戦争 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E6%9C%AA%E6%88%A6%E4%BA%89

最終更新 2020年10月30日 (金) 03:13 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)

 

 

台湾島抗日秘史 喜安幸夫 原書房 昭和54年刊 p6-45

http://ktymtskz.my.coocan.jp/meiji/kiyasu.htm

 

通俗征清戦記(服部誠一 著、東京図書出版、明30.9出版)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773708/128?tocOpened=1

 

㊙䑓海報 第七号、第八号

https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/about/pdf/02-05_06.pdf

 

大姑陥戰紀念録

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773753

 

義和団の乱

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1#%E8%83%8C%E6%99%AF

最終更新 2021年5月12日 (水) 06:18 (日時は個人設定で未設定ならばUTC

 


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