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原田重吉

 原田重吉は日本陸軍の軍人である。三河国東加茂郡豊栄村大字日明二十八番戸、今の愛知県豊田市で明治元年十月十日に生まれた。日清戦争中の平壌の戦いに於て、玄武門を先駆けて開門した功績で金鵄勲章をもらった。一躍国民のヒーローとなり、その活躍は、新聞、錦絵、芝居、幻灯、など当時のあらゆるメディアで取り上げられた。元来、貧乏な農村出身の原田は、芝居において自身の役を演じ一時的な大評判をとった。しかし、その功名は長く続かず、金鵄勲章も売り払ってしまったともいわれる。この間の祭り上げられた兵士の栄光と没落を題材にして、萩原朔太郎は「日清戦争異聞 原田重吉の夢」という短編を書いている。これは明らかに創作である。現在、原田に関しての情報が非常に限られていることから、この萩原朔太郎の小説が実話とみなされているようなところもある。

 この項では、出来るだけ当時の資料にあたって、原田重吉がどのように伝えられ、評価され、作り上げられ、そしておとしめられたかを探っていきたい。

 国立国会図書館のデジタルコレクションの中に原田重吉に言及した書籍(錦絵も含む)が25点存在する。発行の古い順に見ていこう。


1『征清戦功美談. 第2編』1894/11/2発行

 第1は「征清戦功美談. 第2編」斎藤源太郎 著  で 「軍夫保坂唯甫平壌の役原田重吉氏に継ぎ玄武門に先登して敵兵の剣其他を分捕りて功を顕はす 」と目次にある。

 1894/11/2発行である。本文中には(前略)「彼の平壌の大攻撃に方り単身城壁を乗り越え玄武門を開きて武勇絶倫の誉れを得たる三河人原田重吉氏に継ぎ疾風のごとく切り入り勇戦激闘血痕班々として戎衣を染めたるまま 壮夫が分捕りたる敵の旗、剣、敵兵の帽子一個を携え 役終わりて帰国したる」(後略)とあり、原田重吉が主役ではないが、この時期には既に原田の功名は普く知れ渡っていたことがよくわかる。征清戦功美談は第1編があり、こちらは目次だけを見ることが出来るが、「佐藤陸軍歩兵大佐平壌の役元山枝隊を率いて激戦驕名を顕わす」とあり、多分その中で原田重吉の活躍がかかれているのだろう。

 

2『支那征討英傑伝』1894/11/11発行

 第2は 「支那征討英傑伝」  堀本柵 著で、「十八連隊第二大隊第六中隊附卒原田重吉君 」と目次にある。

 明治27年11月11日発行である。これは、原田重吉を一番古く伝えていると思われるので、しっかりと引用しよう。

 「好武人 陸軍歩兵中尉三村幾太郎君 同一等卒原田重吉君

玄武門の一段に於て吾人はその戦を略記したり、然れども亦これを繰返すの必要あるを知る。第一第二第三の突貫功を奏せず、今や最後の突貫行われんとする折から、一の将校。一の兵士。両々相携えて城門に近づき、兵士は身を挺して門墻(もんしょう)を越え、門を開きて全軍をさしまねきたりと。一の将校とは誰ぞ?一の兵士とは誰ぞ?将校は名古屋の人陸軍中尉三村幾太郎君にして、兵士は三河の人原田重吉君なり。

已に最後の突貫行われんとするや、中尉は突如として、進み出で。徒に突貫して兵を損するも甲斐なからん、我乞う敵中に突進して彼の門を開かんと。言いすててぞ進み行く後ろより。小隊長危うし危うし小生乞う先登せんと。中尉に先んじて懸崖を攀じたるはこれ即ち原田君なり。

敵兵はかくと見るより余りの事に胆を奪われ、只ガヤガヤ人浪打つのみ、原田氏は身をひるがえして群中に飛下り当たるにまかせて薙立つ所へ、中尉も同じく進入り前後左右に切退けたり。この間に原田氏は門に取つき、中尉も亦敵を追のけ、力を併せて門を開き、我軍をして大功を奏さしめたり。

中尉は慶応二年一月を以て生れ、明治十九年の頃士官学校に入り、その中尉に任ぜられ たるは、二十三年七月なりき。

原田氏は三河の人明治元年十月十日を以て生れ、同国東加茂郡豊栄村大字日明二十八番戸に住宅あり、君幼にして他郷に流寓し、商家の丁稚となりて数年を送り、年ようやく長ずるに及びて東京に出稼ぎし、二十年の頃家に帰りて家を継ぎ暫時は農事に身を委ねたりしが、適齢におよび志願兵となり豊橋兵営に入営を許されたるは実に明治二十一年の十二月なりき。二十四年十一月三十日予備役に編入せられ、今回の事あるに及び、召集に応じて入営し、佐藤大佐にしたがって古今未曽有の大功を立てたり。

この事あるや中尉は直ちに大隊副官を命ぜられ、原田氏亦上等兵に進められたり、而て今やその功勲上に聞す、その栄進何ぞこれのみにとどまらんや。尚一身に余る恩命の下るあらん。

ああ!これ何等の猛将猛士ぞ、紫宸殿に怪鳥を射たりし源三位と猪早太はいかに?彼ら未だ以て較するに足らず。両々進んで懸崖に攀じ、突進城門をひらきたるは、宇治川の佐々木梶原に類して、而も生田の城門を合わしたるもの。真にこれ一対の好武人。」

原田重吉が、指揮官の三村中尉をおさえて、先に城門に登り、門中に飛び降りる。後を追う三村中尉と力を併せて玄武門を開いた。このことがきっかけになって平壌が陥落したというストーリーである。

 

3『帝国軍人名誉列伝』1894/11/16発行

 第3は「帝国軍人名誉列伝 」前作と同じく堀本柵 著  

 

目次は「陸軍歩兵一等卒原田重吉君 」である。

 

 明治27年11月16日発行。定價は金三十銭とある。

 内容は三村中尉が先頭に立ち玄武門にのぼるのを原田重吉がおともしますと、ついていく構成になっている。そして、肝心の開城の場面では固唾をのんで見守る兵士たちの前で、ゆっくりと玄武門が開き、三村と原田がかんぬきを振り回し奮戦しているという光景になる。外からの視点に立っているところが工夫かもしれない。原田の伝記には特に付け加えられていることはない。金鵄勲章をもらったことや家族宛の書簡が紹介されている。

 金鵄勲章のくだりでは、「一将功成萬骨枯と、古の戦国にありては則ち然り、今や一国の軍旅は、一国の人民と同体にして、軍旅の事亦一人の私に非ず、故に軍人の功を録し勲を賞する、嘗て地位の高下を問わず、君の如きは眇たる一兵卒に過ざるも、賜うに金鵄勲章を以てすべしと。君たるものいよいよ天恩の厚きに感じ、奉天に北京に、亦玄武門当時の勇気を揮わざるべからず。」として、国民皆兵の現実が浮かび上がっている。

 また、重吉の豹変を語る段落では ○宛然軍門にあるが如し として、「八月四日の夜を以て、充員召集の令は下れり、君欣然として直に召集に応ず、褸衣を脱して軍服を着くるや敬礼毅然、態度厳粛にして、宛然(さながら)軍門にあるが如く、又前日の日雇人足にあらず、郷党始て君が精神を知得し、大に祝してその首途を送りたりとぞ。」と人足に身をやつしていた重吉が召集されるやいなや軍装をまとい毅然と現れるというまるで芝居のような描き方である。

 書簡の内容は「軍人たるもの一度戦地に向かいては、決して生きて還らぬものゆえ家人たるものも亦未練を残すべからず、只願うは娘の事なり 娘生長の後は天晴軍人の児たるに愧ざらんことを、されば家庭の教育は今より深く意を止めよと。他に又一語の家政に及ぶものなし。」とあり、軍人たるものは生きて還らぬものとはっきりいっている。

 

4『征清壮絶日本軍人義勇伝』1894/11/28発行

 第4は「征清壮絶日本軍人義勇伝 」 富岳館編輯部 編 目次「稀世の勇士原田重吉氏 」明治27年11月28日発行 編集主任兼発行者 田中重策である。

 「稀世の勇士原田重吉氏 絶大の勲功兵

平壌の役稀世の大猛勇を現し稀世の大勲功を立てたる者は一等卒原田重吉氏その人なり 氏は是れいかなる人か 豊橋衛戍歩兵第十八連隊第二大隊第六中隊の兵卒にして元山枝隊に属し平壌攻撃に苦戦し来れる勇卒なり 嗚呼僅かに一の兵卒にして而して全軍第一の功勲者と称せられ稀世の奏功者と賞せらる 果たして如何なる猛動をなせしぞ 曰く実に氏は万夫不当の勇を以て先登第一玄武門を掠奪し開閉して武名を四海に博したるなり 始め元山枝隊の第二第三両大隊は朔寧枝隊と合して平壌牡丹台下に厳兀(げんこつ)たる玄武門を攻撃す この門は平壌中要害無比にして而して門は皆泥土大石を以て塗り固めたる最大堅牢のものなり かつ敵は精を抜き勇を集めて死守するを以てその堅にして抜くべからざること他の堡塁の比にあらず 我兵攻撃最も力めたりと雖も敵は門の上部なる堅塁により連発銃口をそろえて乱射する勢いの猛烈なること当たるべからざるものあり 我が軍の勇壮なるこの雨のごとき弾丸の間に進み三回まで吶喊を試みたれども敵兵の防守ますます激にしてその功を奏せず ただむなしく我が死傷の夥しきを見るのみにして苦戦実にいうべからず かくと見る原田氏は虎のごとく怒り獅子のごとく荒れ単身一躍勇進すると見る間に弾丸寸地を余さず奔射し来るなかを冒し一丈に余れる玄武門の城壁をよじ登り門内に飛びいり山なす敵を追いのけ追いのけ猛戦奮闘して門障をひらかんとす この時早く原田氏を率い六中隊長三村中尉(伝前に出ず)原田氏に次いで壁を越え奮激突戦して原田氏をして遂に門を開かしめたり 氏等がその胆の絶大なる その勇の猛豪なる鬼神を駆る 我が軍もこれを見て感嘆一度に起こり ために勇気を百倍せざる者なし かくと見る六中隊の兵は二勇者に励まされかつ門障の開きたるを以て「それかの二勇士を見殺しすな」と一度に進んで之に入る 敵はこの勢いに辟易して城門を退きたれどもその上部なる敵は距離きわめて近く連発銃の乱射またきわめて甚だしくほとんど支うべからざらん勢いなりし 折から城門の障碍既に開除したれば我が軍は怒濤の崩るる如く以て突入し一挙して敵に白旗を掲げしむ ここに於てか我が軍の攻撃全くその功を奏し歓声四方に湧起するにいたれり 嗚呼この日原田氏が勇なかりせばなお幾多の苦戦を要せしなるべし 氏の功勲実に絶大なりというべし 而して氏の雷名は直ちに全軍に響きわたり四海に轟き賛嘆感賞今なお止まず 何たる偉丈夫ぞや きくところによれば氏は功を以て即日上等兵に進められなお偉勲をその筋に上進したりという 不日身に余る大勲章を胸間に懸くるにいたるや明らかなり 嗚呼うらやむべしこの好男児 嗚呼敬すべしこの大丈夫

世人は一斉にこの稀世の勇士稀世の大勲者がいずれの人にしてまたいかなる性行経歴ある人なるやをしらんと欲して切なるべし 吾人もまたこれを記さんと欲して切なる者なり 請う下文を読んで氏の大功を奏する決して偶然にあらざるを知れ

三河の国古より多く豪傑を出す 南朝の忠臣足助重範この地におこって勤王の徒天下に饗応し東照神君この地に勃興して名将勇士また雲のごとくに現わる 而して原田重吉氏も実に同国東加茂郡豊栄村字日明と称する地に生れたり 豊栄村は足助氏奮起の地たる足助を距ること僅かに一里 東照公勃興の地松平を距る僅かに半里ばかり 而して今やこの大偉勲者を出すもの決して偶然にあらず

氏は明治元年十月を以て生れ 父を孝七といい 母は既に没す 一人の兄あり菊五郎という 故有りて家を出で今あらず 妻ヨウ二才の長女を抱きて父に奉仕す 氏が家農を以て業となし些少の田地を有すと雖も以て妻子を養うにたらず家計きわめて困難なるため氏は幼より近傍の家に傭役し艱難つぶさになむ 然れども性活発剛毅にして寡欲なり 毫もこれを意となさず その人に接する最も温厚篤実にして郷党のために愛せらる 後思うところあり奮然として東京に出てしばらく諸所に奉公の身となりしが明治二十年六月徴兵適齢のため故郷に帰り合格して豊橋第十八連隊第六中隊に入る 時に二十一年十二月なり 越えて二十三年十月歩兵一等卒となり二十四年十一月現役満期を以て予備役に編入せられ 再来家に帰って業を励むの際今回の日清事件起こるとともに再び召集せられて旧隊に復し渡韓の後 元山枝隊に従い平壌に進み遂にこの稀世の大功を彰わせり

今氏の入営以後今日に至る二三の言行を録せば氏は元来射撃術に長じ また器械体操を能くす 特に障害物飛び越えのごときは最も得意とするところなり これがため賞状を受くる前後二回 想うに今回の大功を奏する実にこれらの業あるがためなり 氏また在営中能く規律を遵守し品行方正にしてかつ学術技芸に熟達するがため特に善行証書を受く また氏が当人に異なるの一般を見るにたるべきは本年夏ごろのことなりき氏は農耕に従事するを厭い 自作の田畑をことごとく他人に預け自身は別に日傭稼ぎをなす 隣人怪しんでその故を問えば曰く「聞く今や朝鮮まさに事あらんとす何時召集の命あらんも知るべからず 故にあらかじめ今よりその準備をなさざるべからず」と隣人しばし忠告するも毫もこれを聞かず人皆以て狂となす 然れども氏また顧みるところなし 孜孜(しし)として他人のために傭役するの際本年八月にいたり果たして召集の命あり氏欣然として曰く「時至れるかな」と衆に先んじて応召すその一たび軍服を着するや体度厳粛儼として軍中にあるがごとし先にそしる者始めて氏の識量に服し大いに感賞せりという またこの頃氏の令妻ヨウ女の三河尚武会員に語りし中に「重吉は非常召集の一月前より日々稼ぎを終わりて家に帰るや夜間庭にて棍棒を打ち振り営中訓練のまねをなし家事のごときはさらにこれを顧みず ただただ朝鮮事件の話をのみ為し居たり云々」とかたりしという 以てその素養を知るべしと氏応召後戦地に赴くの前家族に宛てて二回の書信をなすその文中に「軍人一度家を辞して戦地に臨めばまた再び生還するを期せず仮令ひ(たとえ)如何なることあるも家人たるもの決して未練の振る舞いあるべからず 我既に死を決せりこの他何事もいうべき事なしと雖もただ一事心に懸かるは一女児なり我れ万一のことあるとも成長の後は天晴軍人の子女といわれる様今より家庭教育に注意すべし」と而してまた一語の家計上のことに及ぶなし 真に毅然たる大丈夫というべし 嗚呼素行すでにかくのごとし 今回のごとき大勲功あるまた宜(むべ)なるかな」

 

5『玄武門攻撃随一軍功者』1894/11月

 第5は錦絵で『玄武門攻撃随一軍功者』絵師・水野年方、版元・秋山武右衛門。明治廿七年十一月 日出版である。日清戦争錦絵美術館では『063 玄武門攻撃随一軍功者原田重吉氏先登奮戦圖』として紹介している。

6『滑稽大盡 : 日清事件大新作』1894/12/18発行

 第6は『滑稽大盡 : 日清事件大新作』浮世仙人 著 

 目次は「原田重吉氏玄武門を破る」である。

明治27年12月12日印刷18日発行 編集者 北川英也 発行者 柏原政治郎 大阪市南区北炭屋町187番屋敷 定価金拾銭 とある。

滑稽的の藝尽(こっけいもののげいづくし)ということで、台本集である。内容は座敷芸、浄瑠璃、小謡、狂言、軍歌、分捕品變覧会(へんらんかい)、狂句、しりとり、地口、落としばなし、幻燈会、講釈となっている。原田重吉は幻燈会の台本の項に登場する。以下採録する。(51・52ページ)

「幻燈会 この大幻燈は拙者が戦地を奔走いたし弾丸雨注の中に身命を賭して撮影いたしたものですから看客諸君よ恰も身を両軍奮闘の裡に置き剣光を目にし砲声を耳にするの一大観を与えます これは平壌の激戦に於まして、勇卒原田重吉氏が、数丈の高壁を攀上り(よじのぼり)玄武門を破らんとするところを写したものでございます。原田氏の勇気凛然犯すべからざる顔色、清兵恐怖狼狽のところ能く能くお目留めてご覧遊ばせ、お目留まれば次ぎをご覧に入れます。」

とあり、幻燈の絵の挿絵(ポンチ絵っぽい)が入っている。

2枚めは斥候隊騎兵東端林平、3枚目は九連城の犬、4枚目は李鴻章が映されて、予告のあとで閉会となる。

7『日清戦争幻燈演劇筋書. 中巻 』1894/12/23発行

 第7も幻燈台本で『日清戦争幻燈演劇筋書. 中巻 』図書 青木輔清 (都舎東江) 著 (観古館, 1894)  

目次は「原田重吉名誉の開門 三幕 」

明治27年12月11日印刷同月23日発行

著述印刷兼発行人 東京日本橋区蠣殻町三丁目十一番地 青木輔清

幻灯器械及び映画製造所 観古館 印刷所 東京市京橋区弓町十三番地 続文舎

以下本文を引用するが、雰囲気を掴んでもらうために、最終ページからご覧いただく。

 

「尚武恤兵幻灯会等のため本月中は半価左の通り

○朝鮮事件発端より牙山大勝利迄 三幕分映画 四円      本年中に出来

○平壌陥落原田重吉の功名 同  四円 既に出来

○旅順口占領迄陸海軍大勝利 同   四円 一月出来

○幻灯一号形五尺写三円五十銭 

○同六尺写 五円六円 

○二号形三尺写一円六十銭

猶上等の分はお望に応じ出来す

○戦争の運転画一枚画共七八十種有りこれ猶追々出来仕り候

以上着金次第遅くも五日間には相違なく出荷仕り候 但し荷造費は当方持ち 小包郵税或は陸海運賃は買方持ち 

○器械は御出張あれば写してご覧に入れる 御欄なき分にて不十分なればお引換申し上げ候

 

明治二十七年十二月十一日印刷同月二十三日発行

著述印刷兼発行人 東京日本橋区蠣殻町三丁目十一番地 青木輔清

幻灯器械及び映画製造所 観古館 印刷所 東京市京橋区弓町十三番地 続文舎」

 

直前のページには幻灯の上映の仕方が細かく記入してある。この本自体が、幻灯を上映するときの台本であるので、この台本を読みながら、写真を操って臨場感を演出しながら多数の観客に見せていたということらしい。以下目次を示そう。内容が想像できるはずだ。

 

原田重吉名誉の開門 三幕

使用映画 幻灯三台以上なれば至極よしと雖もなくば一号形一台、二号形一台にて演ずべし

○重吉宅の場

一 重吉宅父病気の体

二 村役場の小使

三 金貸と執達吏

四 父子三人愁嘆

五 三村中尉

六 重吉出発の祝

七 重吉の舞

 

○平壌正面大戦争の場

八 三将の軍議

九 斥候兵註進

十 平壌正面門

十一 我兵進撃

十二 長岡参謀の勇戦

十三 大島少将の勇戦

 

○城北の戦争重吉の功名

十四 山上より大砲を発す

十五 突進奮戦

十六 大砲牡丹台城を破る

十七 重吉の勇戦

十八 玄武門

十九 重吉壁を経て門を開く

二十 平壌占領凱歌

 

画総計二十面内十面運転画

 

 19世紀のヨーロッパで盛んになった幻燈は江戸末期にオランダからもたらされ、始めは養蚕の教育用の道具として使用されたようだ。1895年3月31日に鎌形の班渓寺で行われた幻燈会の内容は教育・実業・日清戦争などで、参加者は600名もあったという。幻燈器は黒いエナメルを塗った板金の箱で、前にレンズが付き、横の口からガラス板(種板)をスライドさせて挿入するようになっていた。光源は石油ランプだった。

運転画というのは詳細が不明だが、長引運転画というものもあり、想像するに、横長のパノラマの画像をすこしずつ引き出しながら、動きを加え(運転)より臨場感を演出できるような効果をねらったものではないだろうか。

(参考:嵐山町web博物誌より 「手島精一と幻灯」 http://www.ranhaku.com/web06/06lifestyle/01sei06.html)

 

 

8『征清独演説. 〔正編〕』1894/12/28発行

 第8は『 征清独演説. 〔正編〕』 図書 服部誠一 (撫松子) 述 (小林喜右衛門等, 1895)  

目次:「兵卒原田重吉玄武門を破る」である。

明治27年12月20日印刷

明治27年12月28日発行

著者 服部誠一 東京市麹町区下二番町三十一番地

発行者 小林喜右衛門 日本橋区新大坂町十番地

発行者 榊原友吉 日本橋区若松町二十一番地

発行者 目黒甚七 京橋区南傅馬町二丁目五番地

印刷者 橘磯吉 京橋区弓町二十三番地

印刷所 三協合資会社 京橋区弓町二十四番地

 

180ページ 

◎兵卒原田重吉玄武門を破る は120字程度の短文で、特に新事実はない。一人の英雄を求めるのではなく、軍隊が作戦行動をしているという、近代戦のイメージを記録しようと言う姿勢があるかもしれない、とまで言うと言い過ぎであるだろうが。

 

9『抜群勇士原田重吉』1894/12/30発行

 第9は『抜群勇士原田重吉』 図書 凱旋城士 編 (求光閣, 1894)

明治27年12月19日印刷、12月30日発行 全41ページ

編集兼発行者 求光閤 服部喜太郎 東京市京橋区材木町3丁目20番地

なんと一冊(全41ページ)まるまる原田重吉「今や氏の勇名は世界に発揚しほとんど原田重吉のなをしらざるものなし、ここにおいてか氏の生伝はたちまち一冊子となりて世に現れぬ」と序文にある。体が大きく相撲が強い、農業よりは木こりや猟をして暮らしたとあり身軽で銃の名手とのことである。両親を16、7歳の時になくし、兄もその前に家を出ているので、田畠をひとに預けて東京に出たとのこと。24年11月に予備役になった時に結婚。妻(おヨウ)と娘(シキ)。

玄武門のことが伝わると、妻と娘の待つ実家には来訪者が絶えず、東京から錦絵や石版画を持ってくる人もあったということだ。11月5、6日の靖国神社の大祭では近衛第二連隊の持ち寄り品とデザインによって玄武門での姿が九段坂の上に手作りで模造されたとの報告がある。戦争中ということで遠慮した競馬や相撲のかわりであったらしい。歌舞伎座では小春狂言に於て「海陸連勝日章旗」の4幕目に「平壌玄武門討ち入りの場」で派手な立ち回りが演じられたとのことで、立木大佐(立見少将)、木村中尉(三村中尉)、澤田重七(原田重吉=尾上菊五郎)の配役である。

以下この部分を引用する。「(前略)機を見るに敏き演劇家は早くもこれを脚色て(しくみて)名優の演ずるところとはなりたり即ち東京第一の劇場歌舞伎座に於てはその小春狂言に於て「海陸連勝日章旗」を演じその四幕目平壌玄武門打入の場にて両国兵入乱れの大立回りあってことごと?支那人打ちまけて城門の内に逃げ入るを見て立木大佐(立見少将に擬せしならん)それ付け入れ進め進めと城中より打下ろす小銃の下を冒して進むを支那兵は扉を原(もと)の如く堅く閉ざして固め日本兵押せども明かず、一手は城門の外に一手は下手石壁の下にて砲撃する、時に揚幕より木村中尉(三村中尉を擬せしならん)先に立ち陸兵十人足早にて出で来り同じく発砲する、このうちに兵士澤田重七(原田重吉氏に擬せしならん)まじりおり、ことごと?木村は城の落ちざるを見て剣をさやにおさめ石壁に上りかかるを(澤田)隊長なんとなされます (木村)なんとするとは知れたこと この石壁をかけのぼり あれなる玄武門をあけるのだ。となおも上りかかるを押さえて (澤)そりゃいけません この石壁とて一通りで登れるものではございません その上に一中隊の隊長がそんなことをなさるものじゃあございません。と無理に引戻す (木)それではなんといたすのだ (澤)わたくしがのぼって玄武門をあけまする。というより早く小銃を背に負い高き石壁をのぼりにかかる。舞台にいる兵士どもはこれを見て、よせよせ、あぶないあぶない、ととめるをも聞かず、澤田がかけのぼるを支那兵はこれを討たんと上より発砲する。澤田は途中までかけのぼってふみはずし落ちるところを半ばにて踏みとどまりまたかけのぼって、ついに石壁の上にたち手早く小銃を背中よりとって台尻にて支那人を打ちそのまま城内へ飛入り中より門を開く以前の立木大佐はじめ一同連隊旗を押し立てて閧(とき)の声をあげて攻め入る 支那兵はこれを見て一目散に逃げだすを日本兵これを追いかける(道具廻る)その時日本の兵士皆整列す (立木)ただいま石壁をかけのぼり城門を開いたる抜群の功名その勇士は何人なるぞ (木村)歩兵第十八連隊第二大隊第六中隊の澤田重七すなわち拙者のたいでござる (立)そのものこれへよびいだされい (木)承知いたしてござる と木村は澤田をつれて出れば (立)澤田重七おてまえが今日の働きたぐいすくなき高名稀代の手柄 この城の落ちたるも全くお手前の功名でござる (澤)おほめのおことば当座の面目ありがたくぞんじあげます (立)高名の次第それがしより大本営へ言上なさん と手を出だして澤田の手を握れば (澤)これと申すも天子様のご威光でございまする と喜ぶ一同功名をうらやみ祝辞をのぶる模様よろしく 幕ーーーこれ著者が立ち見してその台詞を筆記せしまま一興ともならんとここに記せり、原田氏に扮する澤田重七を演ずるは誰ぞ、名優尾上菊五郎丈なり 場は日本第一の歌舞伎座に、優は日本第一の音羽屋に演ぜられ氏の勇名は日本第一と聞こゆ氏が金鵄勲章を胸に飾り日本全民の歓迎を受くるはまさに敵国を平らげて全軍凱旋を唱ふるの時なり 嗚呼名誉なるかな 嗚呼愉快なる哉

後略」

以上のように著者の 凱旋城士が立ち見して書き取ったという台詞を交えて報告している。

また、賞状の写しも出てくる。

1、

賞状寫 歩兵一等卒 原田重吉

障碍物跳越優等之證 明治二十四年七月一日 

歩兵第十八聯隊長陸軍歩兵中佐 従六位勲四等 小島政利 印

 

2、

善行證書冩 歩兵第十八聯隊第六中隊 歩兵一等卒 原田重吉

右現役中品行方正勤務勉励学術技藝に熟達す因て此の證を付與す

明治二十四年九月三十日 

歩兵第十八聯隊長陸軍歩兵中佐 従六位勲四等 小島政利 印

 

3、

善行證書冩 歩兵一等卒 原田重吉

行状方正勤務勉励技藝熟達特に射撃及器械体操に長じ隊中の模範たるを表彰す

明治二十四年九月廿六日 

歩兵第十八聯隊第六中隊長陸軍歩兵大尉 従六位勲五等 新保正 印

 

更に、九月三十日付け 書簡の写しがある。無事である、子供の教育をたのむ、今後は元払いで送れる 追伸 玄武門で手柄を立てて、上等兵に昇進した。というもので以下採録する。 

「十月十六日に一通の郵便戦地より到着せり、妻は良夫の無事なる事上封の文字を以て已に知ると雖ども模様は如何にと心いそいそ開封して讀み下すに

 拝啓時下秋冷の節に候處戦況は再三御通知致し候通り小生こと無事軍務に従事罷在候間(じゅうじまかりありそうろうあいだ)休意あるべし 次に郷里に在っては児子の養育を第一とし小生の歸國するを待ち居るべし 過日は賃銭先拂の書翰差出候得共(しょかんさしだしそうらえども)これは印紙等賣買無之不得止(ばいばいこれなくやむをえず)右の始末御承知被下度(ごしょうちくだされたく)今度よりは無賃の書翰一人に付一箇月◯通に限り差出す事に相成候間(あいなりそうろうあいだ)此段御承知相成度候也(このだんごしょうちあいなりたくそうろうなり)

二伸 去る十五日の役に第六中隊城の東南部にある玄武門を占領するとき我先入して其の門を開きたる戦功に依り去る二十四日歩兵上等兵に任ぜらる此段報知申候

 在朝鮮國平壌第三師團 歩兵第十八聯隊第六中隊 原田重吉

九月三十日 原田よう どの」

 

「福羽美静 作 原田の武勇

平壌城の戦いに 日本武人の働きの

勝(すぐ)れしことはあまたあり 中にも原田重吉氏

ことにすぐれしその武勇 そのほか指揮官評議の場

三村中尉は進みいで このまますぐに進みなば

むなしく士卒を損ずべし われ敵中に突進し

かの城門を開かんと 言下に身をば躍らせて

かの城門に馳せ向かう 中尉に属せる一等卒

原田はたちまち声をあげ 小隊長よ危うきぞ

我こう先に進まんと 雨よりしげき弾丸の

下をくぐりて玄武門 難なく攀じて登りけり

この時門内清兵は 日本の軍勢いかばかり

武勇にありともこの門の この懸崖に攀じ登る

道理はあらじこの門を 堅く守れば平壌の

城は安全無事なりと 思いしことはたちまちに

原田の武勇に破られぬ 三村中尉もその時に

たちまち入城開門し わが軍(いくさ)をば進ませて

敵を四方に打ち散らし その気味よさぞ限りなき

これを思えばその武勇 中尉の考え実に能く

原田は中尉を重んじて 進みしことはこれ実に

忠臣義人のおこないぞ すべてのこともかくのごと

上なる人は何事も ものの機会を考えて

身をも人をも進ませて 下なる人はその時に

人より先に身をはげみ たちまち功を顕わせば

その功すなわち千歳に 美談を留むるものぞかし

王政復古のこの時代 その身に上下の境なく

万民すなわち王臣ぞ 国家に功を励むべし

万民ともに功をたて 大帝国の万歳を

天下とともにうたうべし 世界とともにうたうべし」

 

という詩が終章である。以上、戦果を伝えられた銃後の興奮をよく伝える内容となっている。

 

10『 討清軍隊大捷軍歌 : 教科摘要. 第2編』1894年12月31日発行

 第10は『 討清軍隊大捷軍歌 : 教科摘要. 第2編』

 図書 山田源一郎 編 (増子屋[ほか], 1894)  

目次:原田重吉 大和田建樹 山田源一郎

明治27年12月26日印刷31日発行 編集者 山田源一郎 東京市本郷区春木町2丁目59番地 発行者 関 貢米 東京市神田区裏神保町1番地(増子屋書店) 加藤 鎮吉 東京市神田区表神保町2番地(開新堂書店) 正価 金四銭

 

目次 教科摘要 討清軍隊 大捷軍歌 第二篇 目次

原田重吉 歌詞 大和田建樹 楽曲 山田源一郎

町田大尉 歌詞 坂正臣 楽曲 奥好義

坂元少佐 歌詞 佐佐木信綱 楽曲 納所辨次郎

旅順口の戰 歌詞 旗野十一郎 楽曲 鈴木米次郎

 

楽譜と歌詞集である。最初のページに楽譜がまず収録されている。そしてつぎのページに歌詞という構成になっている。以下歌詞のみ採録する。

 

第一 忠勇武壮の我兵は    大同江をおしわたり

   卑怯未練の敵軍を    平壌城に囲みたり

   時こそ来つれいざ進め  勝つべき軍(いくさ)は今日なるぞ

 

第二 忽ちおこる進軍の    喇叭の声に勇み立つ

   兵は三面一撃の     下に乗っ取る牡丹台

   士気はますます奮いつつ 山をも抜かんばかりなり

 

第三 立見少将この時に    朔寧支隊をさしまねき

   台下にそびゆる玄武門  いで破らんと打向かふ

   門は名だたる堅固の地  死力つくして守りたり

 

 

第四 雨と降りくる弾丸を   分けつくぐりつ前に立つ

   三村中尉を呼びとめて  進むは誰ぞ部下の卒

   隊長あやふし我ゆかん  あとより続け我兵よ

 

第五 見るまに敵塁躍り越え  むらがる敵をなぎふせて

   内より開く玄武門    はや手に入れり破れたり

   天も崩るる万歳の    声は四方に起りたり

 

第六 わが日の丸の旗影は   大同江を照らしたり

   わが日の丸の旗影は   平壌城をおほひたり

   原田重吉先登の     ほまれを歌へ国の民

 

11『新体軍人用文』1895年2月12日発行

 第11は『新体軍人用文』

 図書 清水善博 編 (浜本明昇堂, 1895)  

明治28年2月7日印刷

明治28年2月12日発行

定價金十五銭

著作者 清水善博

発行者 濱本伊三郎 大阪市東区北久宝寺町四丁目三十五番屋敷

印刷者 前野活版所 前野茂久次 大阪市東区和泉町二丁目八番屋敷

 

目次:第十八聯隊第六中隊一等卒原田重吉氏の偉勧

 

冒頭に旗や勲章の図解が有り、実用辞典・文例集となっている。

図解や一覧の後、本文に入ると教育勅語、徴兵告諭に始まり、宣戦の大詔、戦勝に対する勅語と続いていく。軍人用文常時門では新年を賀する文、入梅中郷里の父母を訪ふ文など季節に応じた手紙の書き方の文例が並んでいる。軍人用戦時門では仁川到着上陸模様を報ずる文など。これは全文を引用してみよう。

 

「拝啓 出発の際はご報申しかね候につき そのまま出発いたしそうろう さて宇品を発しそうらいてより十四日仁川着のはずにそうろうところ海上風波殊に暴く 十五日午後四時頃同港に着しそうらえども なおもハシケをおろしかね 十六日とあいなり 連日の風雨始めてやみ候につき午前十時頃より上陸しはじめ 翌十七日正午頃悉皆上陸しおわりそうろう なにぶん数多兵員の入り込みそうろうことゆえとても舎営はできがたしと存じおりそうろうところ領事館員の尽力にてたいていは舎営いたし私儀も舎営の中に加わりそうろう すなわち舎営は領事館 郵船会社 料理店 その他日本居留地の商家にござそうろう この日は清 韓 欧米人ら 我兵を見物いたし候もの多く いずれも我兵の規律整然たるには賛嘆せし様見受けそうろう ことに韓人の我軍馬の大なるを見て驚き候はおかしく存じ候 まずは到着お知らせまで 匆々不尽」

 

 至れり尽くせりである。面白いのは「九死一生報告の文」とか「輜重の困難を申述る文」また「広島帰着及び病院中お手当厚きを報ずる文」など個人の状況をしらせる文例がある、一方「黄海戦況報告の文」「虎山戦況報道の文」など戦況を知らせる文例などが混在していることだ。戦況の報道は軍が情報をコントロールしているというよりは錦絵に付属する記事などと同様に個人名が頻繁に登場し合戦の武勇を歌い上げるその現場に報告者が居るという臨場感があり、例文ならではのまとまりがある。そして、日本軍側も決して無傷ではなく、その少なからぬ被害も多く語られている。兵士向けの実用文例集というよりは文例集の形を借りた、エピソード集と考えた方が近いかもしれない。

虎山戦況報道の文には閑院宮載仁親王(第一軍司令部付大尉として従軍)の宮様の伝令使のエピソードも含まれている。

 各ページは2段組みになっており文例集の上段には軍人への勅諭、大臣や大将の訓諭、訓令また、種々の法律・条例の各条項などが掲載されている。勅諭には解釈も付属している。また、日清兵の体格比較表も付属している。そして、原田重吉が登場するのは付録の軍人逸話の部分である。

 百六十五頁には 白神源次郎が登場する。ひとたびこの戦死の噂世に伝わるや人々感ぜざるはなく讃称の歌を作るものも多かりしが外人もまた大いにこれに感じ横浜在留のドイツ人エフエフ氏はこれが歌を作りたり、その翻訳なりとて広島に於てその筋より掲示せられしものは左のごとし

成歓駅の喇叭手 

成歓駅の戦いはあながち大戦ならねども、険しき岩も茂る木もすべて死ぬべきところなり、わが軍隊はことごとく、命をかけて進みゆき、荒れ野における朝露を、唐紅となしにけり。 弾雨たばしるその中に、剣光ひらめくその中に、肉と血とより成り立ちし、人々しばしたゆたいぬ、折しも聞こゆる喇叭の音、進め進めの信号は、銃の響きに障えられず、いと清らかに鳴り渡る。 その喇叭手は誰なるぞ、姓は白神名は源次、弾丸飛びくる岡の上、脇目も振らず直立し、我隊長の命令に、いささか違うところなく、またも進めよ進めよと、ひときわ高く奏しけり。 この声聞きて我軍は滝津瀬のごと押し進み、やいばと玉を背なにして、逃げ行く敵を追いうちぬ国のためまた名のために、はげみ戦う我兵は、身の丈こそは低けれど、肝は身よりもおおいなり。 再び吹きし喇叭の音、聞いて再び進みしが、進めス・・・・コハ如何に、息きれたるか白神よ、彼は喇叭を口にして、たちたるままによろめきぬ、進めス・・・・コハ如何に、彼の喇叭は血に染みぬ。 赤き心の血をもちて、染めし喇叭をなお棄てず、はかなく息は絶えぬれど、敵に向かいてなお立てり、ああ岡山の船村の、勇士源次は息絶えぬ、君のおんため国のため、最後の息は同胞(ひと)のため。

 

 百八十五ページから百八十九ページに登場するのが原田重吉だ。

○第十八連隊第六中隊一等卒原田重吉氏の偉勲

というタイトルで始まる。特に目新しい記事を抜書きすると、「一回の飯量三合を要す」であるとか、「かつて、土地整理の挙有りしとき大いに村民と激論し遂に一身をもって丈量のことを完成せしことあり」とあり、よく食し、元気があり、重大事には命がけで事に当たる、といったイメージが語られている。玄武門破りの直接的な記事はなく、留守宅への懇書(丁寧な手紙)の数々があったことに触れた後に福羽子爵から留守宅へ寄贈した歌を引用している。2ページに渡る、七五調の歌は美辞麗句に満ちているが、特に新事実はなく、三村中尉の先導を原田重吉が追いかけて、事をなしたという展開である。最終段で「「すべての事はかくのごと、上なる人は何事も、物の機会を考えて、身をも人をも進ませて、下なる人はその時に、人より先に身を励み、忽ち功を顕せば、その功すなわち千載に、美談をとどむる者ぞかし、王政復古のこの時代、其身に上下の界なく、萬民すなわち王臣ぞ、国家に功を励むべし、萬民共に功を樹て、大帝国の萬歳を、天下と共にうたうべし、世界と共にうたうべし」と教訓的にまとめ上げるが、民である兵隊が、王のために死んで功をなしとげるというストーリーを強調していくべきまさにその時であった言うことだろう。いわゆる軍国美談の黎明である。

 つづいて、この本は文例集なので原田の2通の手紙を紹介している。

1通目が切手が買えなかったので着払いで出した言い訳のあとに少しだけ玄武門先登の事に触れたもので、第9の『抜群勇士原田重吉』に引用された手紙と同じものである。

2通目は清兵が進軍する道ばたにたくさん行き倒れて居ることや、鴨緑江を渡って九連城を攻めることになるという戦況の報告である。文例集としては、余り参考に出来なさそうな2通ではあるが、リアリティがある。

 一通目を引用する。

「拝啓時下秋冷の節にそうろうところ戦況は再三ご通知いたしそうろう通り小生こと無事軍務に従事まかりありそうろうあいだご休意あるべし 次に郷里にあっては児子の教(養)育を第一とし小生の帰国するを待ちおるべし 過日は賃銭先払いの書簡差し出しそうらえどもこれは印紙等売買これなくやむをえず右の始末ご承知くだされたし 今後よりは無賃の書簡一人につき一ヶ月○通に限り差し出すことに相成りそうろうあいだ この段ご承知あいなりたくそうろうなり 二伸 さる十五日の役に第六中隊城の東南部にある玄武門を占領するとき我先入してその門を開きたる戦功によりさる二十四日歩兵上等兵に任ぜらる この段報知申しそうろう

在朝鮮國平壌第三師団歩兵第十八連隊第六中隊 原田重吉

九月三十日 大日本帝国愛知県三河国東加茂郡豊栄村字日明 原田よう 様」

 続いて二通目も引用する。

「当地氷雪を催す(も) ますます無事にて十月四日平壌を発し同(日)午後無事義州をさる三里の地、所串館に到着いたし当地に在陣いたしおりそうろうあいだ はばかりながら(乍憚)ご休神くださるべくそうろう この行軍中路傍に支那兵のゆきたおるる者無数、あわれむべきなり否愉快なり 敗走の敵軍は平壌を敗走し路傍の人家に火をつけて去るため 我軍これに舎営するあたわず ために多く露営あるいは民家に宿り誠に艱難を極めたり また糧食の点につきても同前 敵は鴨緑江を東に控え九連城に陣控え これを攻撃をなすはなはだ艱難なり これ鴨緑江あるがためなり この鴨緑江を渉るいかなる方法をもって渉るか 同城(地)を攻むるはいつ(何日)よりなすかはつまびらかならず(不詳)(此)の労に僥倖をえて生命まっとうせば万事後通知つかまつるべくそうろう

在朝鮮國平安道所串館にて 第三師団歩兵第十八連隊第六中隊 原田重吉

十月二日 原田よう 様」

 

 

12『 征清百傑伝. 上巻』1895年2月18日発行

第12は『 征清百傑伝. 上巻』

 図書 天竜漁史 編 (奎光堂, 1895)  

目次:原田重吉伝 7ページから11ページ。肖像写真(画)あり

明治28年2月15日印刷

明治28年2月18日発行

定價金十五銭

発行兼編集者 福田鎗三郎 東京市京橋区新肴町十八番地

印刷者 橘磯吉 東京市京橋区弓町二十三番地

発行所 杢光堂 東京市京橋区新肴町十七番地

印刷所 三協合資会社 東京市京橋区弓町二十四番地 

7ページから11ページ。肖像写真(画)あり

巻末の予告によると中巻が出るとのことなので、全三巻となる。

他と比較して特徴的な記事を抽出すると

その1,「兄菊五郎東京に来たり馬喰町の鴨南蛮に雇われる」とある。

その2,これはこの項を通してもっとも重要な情報であるが、玄武門の攻撃にあたったのは原田重吉と三村中尉の2名のみではなく、実は十五人の部隊であったということである。以下引用する。9ページ6行目から

「(前略)九月十六日三村中尉の一隊之に迫る、初め中尉その率いる所の一小隊を三分し、まず先頭の一部隊をして開門せしめんとし、若し其功を見るにおよばざれば継ぐに二部隊を以てせんとし、先頭の一部隊より十五勇士を選抜して開門のことを命ず、重吉亦その中(うち)にあり、中尉十五人に告げて曰く、今日の挙実に生命を賭せざるべからず、各自書を郷里に到さんとするものあらば、間(かん)に乗じて之を認めよと、十五人声を斉ふして(ひとしうして)應て(こたへて)曰く、吾儕(わなみ)一死國に報ぜんとす、何ぞ家人を顧みるに暇あらんやと、辞気凛冽意色既に決す、栗田梅吉なるものあり、水を㧵杓に汲み、来たって中尉に捧ぐ、中尉先づ飲み、十五人循環して盡す(つくす)、永訣の式既に終る、中尉挺然として身を起し、一聲進發の令を傳う、十五人踴躍して玄武門に向ふ、門を距る(さる)十二米突(メートル)の所に至り、背嚢を卸し匍匐して進む、重吉及び村松明太郎、宮本平作、五島辰吉、栗田梅吉の五人列を離れて突進せんとす、中尉叱聲之を止め、事は密なるを要す、機は一髪の間(あいだ)に在り、原田一人行けと命ず、重吉奮然聲に應じて劔銃(じゅうけん)を地に委し、猿猴の如く早くも玄武門に攀づ(よづ)、門の扉(とびら)高四間許(ばかり)、扉の上端と門庇との間、恰も人の潜り(くぐり)入るべき空隙あり、門の左右は石垣を築き、門内に坂あり、坂盡(つ)きて又一門を設く(もうく)、敵兵此内にあり、銃を攅(あつ)めて防禦を為す、重吉隻脚を門扉の乳金に、隻脚を石垣の罅隙(かげき=裂け目。割れ目。亀裂。)に懸け、登らんしては落ち、落ちては又攀づ、此の如き(かくのごとき)もの前後二次、村松明太郎これを見て馳せ来り、重吉の體を下より撑う(さそう)、ここに於て重吉庇上の隙に手をかくるをえたり、明太郎すなわち重吉の委棄せし銃剣をあたう、重吉庇上にあってこれをとり、銃台をもって庇内のかぎを破りたれば、門扉は豁然として開けり、重吉庇上より動静をうかがう、中尉は門扉の開くを見るや、村松明太郎を先頭とし、十五人吶喊門内に闖入す、重吉また躍って門内に下る、敵兵これを見て一斉に銃を放つ、加藤太郎吉、原田霜吉二人これに死し重吉と栗田梅吉は負傷す、平壌○で陥り、重吉は功をもって即日上等兵にすすめられ、既にしてまた二等曹長にのぼる、全軍喧伝その功を羨望す、中尉が師団長野津道貫の面前にて開門の状況を報ぜし時のごときは喝采の声天地を震撼せしという、日ならずして捷報東京に達す、重吉の功名殊に赫灼、新聞紙これを記し、劇場これを演じ、上下貴賎老幼男女満天下その功を嘖嘖(さくさく)せざるなし、而して重吉は家人に報ずるに、微功をもって進級せりというにすぎず、その功に誇らざる古武士の風ありというべし、

聞く重吉の家豊栄村は徳川家康の勃興せし松平村と同郡にして六所山を背にし相さること僅かに半里、また南朝の忠臣足助重範の奮起せし足助を離るる僅かに一里、ああこの地にして偉勲者重吉のごときものを出す、正気の磅礴(ほうはく=混じり合って一つになること)して然(しか)るか、抑亦(そもそもまた)山水秀麗の気の凝てしかるか、重吉のごときは真に門閭を光耀するものという可(べ)し、(村の入口を輝かせる存在)

 

三村中尉の指揮下十五人の決死隊が玄武門の攻略にあたる詳細が述べられている。リアリティがある。門内に坂があり、その奥にまた門があり、その中に清兵がいたという情景描写は、玄武門攻略の様子を一番詳細に報告しているように思える。

決死隊の数十五人は最多であり、また個人名も最多数収録されている。

 

 手紙に関しては「書を家人に寄せて曰く、軍人一たび戦地に臨めば生還を期せず、家人たるもの敢て意することなかれ、唯願ふ一女成長の後は、天晴軍人の児女と言はれん事を、故に今より家庭の教育に注意すべしと、而して更に家計の事に及ばず、」とあり、実際に送られた手紙とは違うようだ。

13『討清軍人十勇士』1895年3月1日発行

 第13は『討清軍人十勇士』

 図書 天野馨 (寒英) 著 (国華堂, 1895)  

明治28年2月24日印刷

明治28年3月1日発行

著作者 天野 馨 東京市神田区柳原河岸第十一号地

発行者 國華堂 山崎暁三郎 東京市浅草區小島町十番地

印刷社 龍雲堂 大場沃美 東京市神田区柳原河岸第十一号地

東京発売書林 大川屋錠吉 山口屋藤兵衛 大黒屋平吉 上田屋書店 辻岡屋文助 内藤金桜堂 木屋宗次郎 近江屋久次郎 長谷川園吉 井上藤吉 綱島亀吉

 

目次:原田重吉

 

 十人の軍人勇士の列伝である。原田重吉は3ページから7ページまでを占める。他は小野口徳治、川崎軍曹、白神喇叭卒、山路中将、坂元少佐、佐藤大佐、志摩大尉、町田大尉、中満中尉である。

 将校の協議中軍隊を離れ玄武門に進むものがあり、ほどなくまた一人後を慕うものがあった。三村中尉と原田重吉である。共々に城壁によじ登り、玄武門を開く偉勲を奏し、結果上等兵(大きい活字で)に進められた、という内容である。生い立ちは同じ。妻の名がよう子となっている。長女しき女とある。

 

 最後は手紙(玄武門の報告)の紹介。ところどころ活字を大きくして強調してある。9月30日付けの本物からの写しである。

14『戦時教育修身訓. 第1編』1895年3月11日発行

 第14は『戦時教育修身訓. 第1編』

 図書 伊能嘉矩 編 (普及会, 1895)  

明治28年3月7日印刷

     3月11日発行

伊能嘉矩 編者 東京市神田区錦町三丁目十七番地

豊岡俊一郎 校閲者 千葉県千葉郡千葉町701番地

辻太 発行兼印刷者 東京市神田区柳原河岸十四号地

普及舎 印刷兼発行所 東京市神田区柳原河岸十四号地

定價 金二十五銭

 

目次:三十七 玄武門の先登者原田重吉氏

 

 記事は108ページから109ページにかけて書かれている。他との相違点として、

その1,牡丹台は文禄の役小西行長の拠りて苦戦せし所なり、とある。また、実行に関しては、その2,一人で城壁を登り、内側から門を開いた、となっていて、三村中尉は指揮をしただけということだ。二人とも昇進しており、「勇将の下には、果たして弱兵あらざるなり。」という結論につないでいる。

15『征清三勇士伝』1895年4月4日発行

第15は『征清三勇士伝』

 図書 凱旋城史 述 (求光閣, 1895)

明治28年3月26日印刷 4月4日発行

編集兼発行者 服部喜太郎 東京市京橋区本材木町三丁目二十番地

印刷社 岡田榮松  東京市京橋区弓町二十四番地

発行所 求光閣

印刷所 三協合資会社

成歓の戦い・平壌の戦い・金州城の戦いの陸軍3勇士の列伝を合本したものである。

原田重吉のパートは第9の『抜群勇士原田重吉』と完全に同じである。

第一は白神源次郎 歌の採録有り 全44ページ

第二は原田重吉 全41ページ 

第三は小野口徳治 全41ページ となっている。

16『征清勇士原田重吉』1895年4月22日発行

 第16は『征清勇士原田重吉』

 図書 関泉野史 編 (矢嶋誠進堂, 1895)

明治28年4月16日印刷

明治28年4月22日発行

定價七銭

大阪市南区順慶町三丁目六番邸 発行者 矢嶋嘉平次

大阪市西区江戸堀上通二丁目百十二番屋敷 印刷者 花谷重吉

発行元 大阪心斎橋通順慶町北へ入東側 矢嶋誠進堂

 

 日清戦争全体の説明や、全軍の作戦行動、などが詳細に語られる。玄武門は2人バージョンである。以下あらすじを記す。

 

第一回 兵役の義務 徴兵制から軍人勅諭までの歴史的背景。西南戦争の谷村計介に匹敵する原田重吉の紹介。

第二回 勇士の素性 重吉の生い立ちなど。特に新しいことは見当たらない。

第三回 充員の召集 東学党、袁世凱、閔泳駿、大鳥公使、大院君など、開戦前夜の情勢の説明から豊島沖海戦、牙山・成歓の戦いをへて八月一日の宣戦布告まで。最後に軍人の覚悟(生きて還らない、子供の教育を心がけよ、家計のことは語らない)を家人に語って第四回に続く。この修身の教科書的な覚悟は今まで出てきた、創作の原田書簡にかかれていることと内容が一致する。

第四回 平壌の合戦 平壌に篭城した葉志超 兵1万5千人、地雷火を敷設、外国人も注目。山県有朋第一軍司令官→野津第五師団長(下流左側)→大島少将(正面)、立見少将朔寧支隊(上流から右側)、佐藤大佐元山支隊(背後)

第三師団の大迫混成旅団隊中歩兵第十八連隊と佐藤大佐の元山支隊の活躍で砲台を一つずつ占領していく。清兵は城内に逃げ込む。一つ残った牡丹台の砲塁は立見少将の指揮下、佐藤大佐、冨田少佐、山口少佐のはたらきで遂に落ち、玄武門が残るだけとなった。総攻撃を3回繰り返すが、被害がふえるばかりで、玄武門は落ちない。

第五回 抜群の功名 「中尉殿危険なりそれがし不肖ながら先登つかまつらん」といって、よじ上り、飛び込み、門を開く。  時午後五時なり たまたま大雨沛然として至る。立見少将の入城と言語通ぜず、明朝の明け渡しを約しての露営。

第六回 軍中の昇等 平壌入城と上等兵・大隊副官への進級。

第七回 家人の喜悦 平壌陥落の電報が各新聞に掲げられていたので妻は知ってはいたが、書状が戦地から届く。書状2通の紹介。先払い、清兵をあわれむ本物の2通が引用してある。細かいところがわずかに違うのみ。手紙や画図を郵送したり金品を持ってきたり、最後は「ああ氏が金鵄勲章を輝かしわが国民に歓迎せらるる日にいたりてその家人の歓喜いかばかりのことならんや」とまとめている。

17『出師美談』1895年5月5日発行

第17は『出師美談』

 図書 岡野竹堂 (英太郎) 編 (松栄堂, 1895)  

明治28年5月2日印刷

明治28年5月5日発行

発行者 大草常章 東京日本橋区橘町一丁目一番地

編集者 岡野英太郎 東京神田区西小川町二丁目三番地

印刷者 瀧川三代太郎 東京日本橋区新和泉町一番地

 

目次:原田重吉の抜勲

42話ほどの美談集である。原田重吉のことは、10ページに ◎原田重吉の抜勲というタイトルでかたられる。全文を引用する。

「平壌の役玄武門堅くして破れず勇敢なる我軍も殆ど加ふること能わず時に一卒あり身を挺して高壁を攀じ万死を冒して城内に入り獅子奮迅の勢いにて群がる敵中に踊り入り終に門扉を排して我軍の前路を開く之を原田重吉氏とす平壌の陥落また輿力有りと而してこの抜勲の手柄をなさしめたる中尉三村幾太郎氏と同じく軍功を以て即日栄進する處あり。○両雄の偉勲は永く青史に留めて后世を蹶起せしめむうらやむべき哉。」(原田重吉玄武門開門の図というポンチ絵つき)

 

 最後のエピソードとして 笑柄(笑い話)が三話ある。

 

 1、牙山の清の将軍 聶士成(しょうしせい)は陣地を捨てて逃げるとき軍服を脱ぎ捨て、軍用日記などの重要品を入れた革箱をも投げ捨てて逃げた。将校がこれでは、部下もね。

 

 2、フランスの一軍艦が上海に入港したとき、停泊していた清艦三隻が日本軍艦と間違えて錨を上げて逃げる準備をしたので笑い者になったとのこと。

 

 3、戦争が始まって、清国各地の人民は枕を高くして眠れるようになった。というのも無頼の悪漢がことごとく募集に応じて出兵したからである。そして、彼らが戦いで倒れ還ってこないことを望んでいるらしい。嗚呼、亡国の人情はそれかくのごときか。

 

これなどは、多少の事実が下敷きになっているとはいえ、相手をおとしめて、戦意を高揚させる文章以外の何者でもない。(歴史学者・原田敬一はこういうプロパガンダ的な側面を教化性という言葉で説明する。)

 

18『帝国軍人亀鑑』1895年9月7日発行

第18は、『帝国軍人亀鑑』

 図書 楓仙子 著 (東雲堂, 1895)  

目次:陸軍上等兵原田重吉君

定價金十五銭

明治28年9月1日印刷

       7日発行

著作者 楓仙子 東京府東多摩郡仲野村字本郷十五番地

発行者 西村寅次郎 東京市日本橋区通4丁目7番地

印刷者 山本新吉 東京市日本橋区新和泉町2番地

発売所 東雲堂 東京市日本橋区通4丁目

    東雲堂 大阪市本町4丁目

 

『帝国軍人名誉列伝』(堀本柵 著、東雲堂, 1894) の再録である。書簡の引用までは全く一緒。ただし追加がある。戦勝後の発行なのでその後の情報を盛り込んでいる。

両作品とも登場するのはほとんどが将校であるが、名誉列伝の方には兵卒が5人登場していた。以下の5名である。

陸軍騎兵一等卒 田上岩吉

陸軍歩兵一等卒 白神源次郎

陸軍一等軍曹 川崎伊勢雄

陸軍騎兵一等卒 東端林平

陸軍歩兵一等卒 原田重吉

 

亀鑑のほうは3人だけ兵卒がのこった。

陸軍一等卒 東端林平 

陸軍一等卒 白神源次郎

陸軍上等兵 原田重吉 原田重吉は前からすると上等兵に進級している。

 

PP148-155が原田重吉にあてられている。序文では一人あたり6ページ半だと言っているので、少しだけ多いようだ。

追加された部分のみを以下にしめす。

 

○隊長の命に従いたるのみ

明治廿八年六月二十四日午後八時を以て、君は第三師団第十八連隊第二大隊第六中隊に加わりて無事宇品港に上陸し、今は郷里に帰休して農業に従事す、人ありて君が玄武門に於ける大功を頌揚すれば、君は首をふりて、玄武門の先登は決して小生の功名ならず、これ隊長の指揮よろしきを得たるものにて、小生等はただただ三村中尉の命令を実行したるのみと。聞くもの皆その謙遜に感佩せり。ここに至って君の功績いよいよ大なりというべし。

 

○十二人の原田重吉

平壌の戦い終わりて君の英名赫赫たる時、人ありその時の戦状を報じて曰く。玄武門を破りし勇士は啻(ただ)に原田重吉のみにあらずして、他に十一人の助力者ありしと。それ或はしからん、然れども破門の先動力となりたるものは即ち君なり。我兵の勇武なる君に劣らざる武人に乏しからず と雖も、けだし君のごときは稀なり。君曰く。余と共に玄武門を破りし人は十二人なり、而して皆余に劣らざる人々なりと帰休の後といえどもその功を誇らざる 概ねかくのごとし。両国の平和克復して幾多の猛士は凱旋し今や胸間に最大の名誉を輝かさんとす、君のごとき主としてその恩典に浴すべきの人なり。

 

以上引用終わり。やはり、凱旋後情報が整理されてくると、いろいろなことを言う人間が現れたらしい。多分白神源次郎と木口小平の取り違えの件などもその事実の洗い出しの重要性を喚起したに違いない。この本ではまだ、白神源次郎のままであるが。原田重吉の場合は、人違いではないのと、第一人者としての功績が確実なので、それほど問題にはされなかったのだろう。次に示す『少年亀鑑』においては、その新事実を加味した記載になっている。

19『 少年亀鑑 : 義勇奉公』1895年9月26日発行

第19『 少年亀鑑 : 義勇奉公』

 図書 行川富之助 編 (弘文社, 1895)  

目次:其一 原田重吉 

明治28年9月22日印刷

明治28年9月26日発行

定價金十銭

編集者 行川富之助 茨城県行方郡秋津村大字半原三十三番地の一

発行者 田山彦右衛門 茨城県鹿嶋郡鉾田町大字鉾田二十五番地

印刷者 柴謙吉 茨城県水戸市上市南三の丸二番地

発行所 川又銀蔵 水戸市上市泉町二丁目

印刷所 弘文社 上市南三の丸

 

21ページから23ページ

「明治二十七年、九月、十五日、平壌の戦に於ける我が元山、朔寧両支隊が非常の大奮戦は一朝にして忽ち敵の堅塁を陥れ、進みて牡丹台を乗っ取り破竹の如き勢いを以て、台下の玄武門に取詰めたり。門は泥土を以て堅く塗りたて、守るに敵の精鋭あり。我軍突貫して門に迫る。初めの突貫功を奏せず。二度目の突貫亦門を破る能わず。其時第八連帯第六中隊に属する三村中尉は先頭開門の命を受け部下の兵士十二人を選抜し共に死を決して玄武門の胸壁を乗り越え突貫して門内に突入せり。

敵兵はこの勢いを見て一様に銃口を切って放し激しく防ぎ戦いたるも十二勇士の鋭き勢いに肝を冷やし次第次第によろめきたり。時に一人の勇士は彼我激戦の間隙を窺い、急ぎ門扉を打ち破りてこれを引き開けければ、今や遅しと待ちいたる我が全軍は鯨波の声(ときのこえ)もろとも一度にどっと進み入り、早くも敵兵を破り得たり。ああ玄武門の開否は実に全軍の勝敗に関す、今その開門の偉功をたて希有の大勝を奏せしめたる勇士は誰ぞ、原田重吉すなわちその人なり。

重吉は愛知県三河国東加茂郡豊栄村のひと、父母早く没し家に些かの田畑あれど家計豊かというにあらず。重吉人となり温厚にして、しかも廉潔。幼時他家に奉公し、後東京に出稼ぎし、二十一年の頃故郷に帰り適齢のとき志願兵となりて豊橋分営に入り、いったん帰休の後は殊に農耕に従事するを厭い自家の耕地はことごとくこれを村民に預け身は日雇い稼ぎをなす。村人その故を問えば、即ち曰く、生や心中期する所あり、あえて農耕に従うを潔しとせず、かつ一朝事あるに臨みては身を以て国家に尽すの精神なりと。村民しばしば之を戒む、然れども重吉平然としてその志を変せず。朝鮮に風雲起こりて出師の命第三師団に下るや重吉八月四日を以て之れが召集に応ぜり。その褸衣を脱して軍服を着くるや志気毅然態度厳粛にしてさながら軍門にあるがごとく、また、前日の日雇人足にあらず。郷党始めて、重吉の精神を知得し大に祝してその首途を送りたりとぞ。ああこれ開門の偉功を現はす所以なり。吾人は国家のため、これを尊び敬わざるべからず。」

 

 ちょうど1年が経過した明治28年9月に出版された図書であるが、命令により12人が選抜され城壁越えをやったとある。前項・第18の『帝国軍人亀鑑』も同時期の出版であるが、こちらにも十二人の原田重吉の項目が追加され、たとえ助力者があったとしてもその功績に変わりはないと強調しているのを見ると、この頃にはすでに情報が充実・確定していたこと。また、一時の興奮が収まってくると詳細を求める気分が色濃くあったのではないか。この『少年亀鑑』ではそこをうまくまとめて破綻がないように持っていっているといえるだろう。

 

次に注目すべきは項目としての村松明太郎の登場である。実は第一の先登者は村松だったという。(重要記述)

23ページから25ページ

「其二 村松明太郎

 平壌の戦に、さしも堅固の玄武門を打破り、遂に我軍をして大捷を得せしめたるは、前記原田重吉の力、与つて大なるや論を俟たずと雖も、原田と同隊にて、同じく十二勇士の、一人なる、村松明太郎(むらまつめいたろう)の如きも、亦た原田に譲らざるの、勲功あるものなり。今其次第を記さんに、当時開門の命を受け、已に城壁を越いたるものは、三村中尉を始め、十二人の勇士なることは、既に記する如し。而して、其最も第一の先登者は、村松明太郎なり。明太郎が、衆に先つて壁を越ゆるや、敵軍の将校とも思しきもの、短銃を以て、明太郎の頸部を打てり、明太郎は勇気百倍、憤然壁を飛び下りて之れと組合ひ居たる其間、敵の弾丸二発を腿に受けたるも尚たゆまずしてして、敵の一人をたおせり。此の時味方の人数加はり、奮闘猛撃大に敵兵をしりぞく時に原田重吉は機敏にも、其間を得て、後ろの門扉を開放しければ、初めて我軍の進入するを、得たるものなりきと。これを明太郎が、当時其家に寄する所の、信書に徴する(てっする ママ)も、亦違ふことなきが如し。之れに依って見れば、明太郎が、玄武門先登、第一の勲功は、原田重吉に譲らざるものならんか。

明太郎は愛知県、中嶋郡、神明津(しんみょうず)村(現在の愛知県稲沢市)、平民、日比玄隆(ひびげんりゅう)の長男なり家、素と裕かならず、幼より親戚に依りて成長し、頗る世辛を嘗む、かくて漸く人となるや、明治廿一年徴兵検査に合格して、第三師団歩兵第十八聯隊豊橋衛戍に入り、毎に上官の指命に服従して、訓練日に進み、期満みて出営するや、未だ定まる所の、家計なきを以て、或る小家の入夫となれり。明太郎、性義俠にして、篤実、よく家事を治め、業を励みければ、富むにあらざるも、生計に乏しきことなかりき。廿七年八月、四日、予備役召集の際、其召状の、達するや、家事一切を、其親友に委託し直ちに結束して、卒先第一に、其指点する徴集所に至れり。これ平素、其責任の重きを知り、官命を遵守するの最も篤きものにして、玄武門先登、第一の偉勲を奏するも亦偶然にあらざるなり。

因に記す、原田、村松両人は、共に勲功により、直に上等兵に昇進し、爾来幾多の戦場を経、廿八年、六月、満肩の名誉をになひ、全国民の歓迎を受けて、無事帰郷せりと云ふ、其面目や大なりと云ふべし。

 

20『中等作文教科書補遺』1896年2月17日発行

第20『中等作文教科書補遺』

 

図書 近藤南州先生 著 (大阪 松雲堂, 1896)  

目次:原田重吉玄武門ヲ攀ヅ

明治29年2月10日印刷

   仝年2月17日発行

著作者 近藤元粋

発行者 石塚猪男蔵 大阪市東区安土町四丁目百十五番邸

印刷者 前田菊松 周拡合資会社  大阪市東区内本町橋詰町六十八番邸

 

PP44-45

 前略 部卒原田重吉かたわらより進み曰く。あやうしかな。我こう代わり先登せんと。言未だ終わらず。丸(たま)を冒し壁を攀じ。飄然身を躍らして。飛越し。直ちに城中に下り。 後略

 

 漢文調で三村中尉をとどめて原田が先登するバージョンを語っている。語調以外は特に新出なし。全体が2段組みになっており上段には下段のエピソードに関連した、言い回しや類語の文例が多数収録されている。

 

21『征清美談 : 教育勅語』1896年5月4日発行

21『 征清美談 : 教育勅語』

 

図書 上野羊我 編 (吉岡平助, 1896)  

目次:原田重吉玄武門ノ先登ヲナス

明治29年4月28日印刷

明治29年5月4日発行

正価金二十銭

編集者 上野羊我 

発行者 吉岡平助 大阪市東区備後町四丁目七十八番邸

印刷者 瀬戸清次郎 大阪市西区靭下通一丁目四十八番邸

発売書肆 吉岡支店 神戸市元町通五丁目二十三番邸

     同文館  東京市神田区通新石町二番地

 

 一 義勇公に奉す の項目中で

PP110-118に「原田重吉玄武門の先登をなす」として紹介されている。十五人の決死隊バージョンである。勢い込んで吶喊しようとする五人。原田重吉、村松明(朋)太郎、宮本平作、五島辰吉、(栗田梅吉)の五名であるが

「事は密なるを要す原田一人行け」と三村中尉に諭され、重吉がひとり進むこととなる。重吉が城門に取り付くのに苦労しているところを栗田梅吉が下から支え、さらに銃を渡す。銃の台座で鍵を壊し門を開くと栗田梅吉を始めとして吶喊、重吉も飛び降りる。加藤太郎吉、原田霜吉の2名は即死。(重吉、梅吉)の2名は重症を負う。三村中尉、石上常蔵【軍曹】(朋太郎)の3名は軽傷である。村松明太郎の名前が、村松朋太郎(明次郎)となっている上、重吉を下から支えるという重要な彼の役割が、栗田梅吉に取って代わられている。三村中尉、石上常蔵(軍曹)及び朋太郎は皆軽傷をおったというのは新事実である。

農学士志賀重昴は豊栄村の近くに住んでおり、その妻が新聞の切り抜き原田の妻ように送った所、ようから返事が来たという。重吉が無事であることと、豊橋から出征する時に届いた手紙に生きて還らないから子供の教育だけはしっかりしろという前出の手紙が引用されている。

その後、福羽美静 作 原田の武勇(前出) が記載され、さらに長歌が記載されている。長歌は始めてなので引用する。

 

四竃訥治なる人長歌一編を作りこれを頌せり

平壌役の戦いに 弾丸は霞と降る中を

身をも命も顧みず 真優男原田重吉氏

万死を冒して雄々しくも 剣の壁によじのぼり

群がる敵のただなかに 勢い猛く躍り入り

玄武の門の閂に 手早くかくる「えいや」声

なんなく扉をおしひらき 味方の兵をぞ進めける

ああ勇ましや大丈夫や 門の枢(くるる)はならずとも

日本男子の日本魂 その名は世界に轟けり

 

浄土宗の本山たる東京芝増上寺院主はその殊功を賞し昨○賞状に盃及び具筆の歌一首を添えて送られたりしその歌に

たてぬきにさせる寨(とりで)の門の戸を まず開きけり 大和大丈夫 運海

22『通俗征清戦記』1897年9月発行

22 『通俗征清戦記』

 

図書 服部誠一 著 (東京図書出版, 1897)  

目次:第廿八回 三村中尉と原田重吉

明治30年8月29日印刷

明治30年9月○○日発行

正価金三十銭

発行者 東京図書出版合資会社 代表者 西村寅次郎 東京市日本橋区下槙町十一番地

印刷者 松本秋齋 同市本郷区湯島一丁目十三番地

印刷所 葆光社 同市本郷区湯島一丁目十三番地

発行所 東京日本橋下槙町 東京図書出版合資会社

 

PP65-67

前略 くだんの将校と一人の兵士は、猿の如く障壁を攀じ、その他の兵士もこれに続き、さしも堅固の城門を、サッとばかりにおしひらきて、味方の兵をぞさしまねきたり。

後略

 

「第二大隊」とか「十吉」とか、これまでの書籍とは多少の相違点がある。その他の兵士は十名。「十名の強者、一々姓名はわからねど、」とある。結構雰囲気のある挿絵(線画)がついている。全440ページもある大部である。付録に征清交戦日誌として年表も付属している。巻末の出版物の広告だけで20ページ以上ある。作文、教科書、美談、地図、日記など、教育全般を取り扱っている出版社であったようだ。

23『日清戦役物語』1928年2月20日発行

23『日清戦役物語』

 

図書(課外読本学級文庫) / 安部直 著 (ヨウネン社, 1928)  

目次:玄武門の原田重吉

昭和3年2月15日印刷

昭和3年2月20日発行

定價九十銭

編纂兼発行者 石井蓉年 東京市本郷区森川町一番地

印刷者 野口道方 東京市本郷区森川町一番地

印刷所 ヒガキ印刷所 東京市小石川区丸山町十一

発行所 株式会社ヨウネン社 東京市本郷区森川町一番地

 

 表紙はカラーである。昭和3年の発行。序文からすでに軍人としての精神論が強調されている。第一章の風雲篇では「喇叭手の白神一等卒」という項目がある。この時期に至ってもまだ、木口小平ではなく白神のままである。

 第三章の平壌篇のなかに「玄武門の原田重吉」の項目がある。40ページから46ページまで。門の上からの清兵の挑発に対して、原田は一人で出る。こっそりと注意深く石塀を登り、中を見ると清兵は4人居眠りをしていた。そこで内階段をするするおりると銃の台尻で戦闘に入る。銃を振り回し2名をやっつけると、残った2名はさらに奥へと逃げ込んだ。その間に重吉はなぜか、そこにあったハンマーで強固な錠前をこわして味方を招き入れる、という次第。玄武門開城の後の章が「軍用地図を焼く」となっており、牡丹台の攻略戦をとりあげているようだが、時間的な後先がある。本文中にも「玄武門まず破られ続いて牡丹台も落ちたので」とあり、事実誤認である。

 白神源次郎の例を見てもわかるように、一度提出されたものを修正していく作業は時間が立てば立つほど困難になっていくのだろう。

24『日清戦争異聞ー原田重吉の夢ー』1935年2月発行

24 日清戦争異聞ー原田重吉の夢ー

 

萩原朔太郎

 

底本:「猫町 他十七篇」岩波文庫、岩波書店

   1995(平成7)年5月16日第1刷発行

底本の親本:「萩原朔太郎全集 第五卷」筑摩書房

   1976(昭和51)年1月25日

初出:「生理 終刊第五号」

   1935(昭和10)年2月発行

青空文庫所収

https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/1771_45449.html

 

 萩原朔太郎の創作である。上巻の冒頭「陸軍工兵一等卒、原田重吉は出征した。暗鬱な北国地方の、貧しい農家に生れて、教育もなく、奴隷のような環境に育った男は、軍隊において、彼の最大の名誉と自尊心とを培養された。」は「陸軍工兵一等卒」が「陸軍歩兵一等卒」であるし、また、「暗鬱な北国地方の、貧しい農家に生まれて」が「今の愛知県豊田市で生まれて」であるのは、これまでの引用文献でわかるとおりである。さらに、下巻では「だが老いて既に耄碌もうろくし、その上酒精アルコール中毒にかかった頭脳は、もはや記憶への把持はじを失い、やつれたルンペンの肩の上で、空むなしく漂泊さまようばかりであった。遠い昔に、自分は日清戦争に行き、何かのちょっとした、ほんの詰らない手柄をした――と彼は思った。だがその手柄が何であったか、戦場がどこであったか、いくら考えても思い出せず、記憶がついそこまで来ながら、朦朧として消えてしまう。」と語られついには「公園のベンチの上でそのまま永久に死んでしまった。丁度昔、彼が玄武門で戦争したり、夢の中で賭博をしたりした、憐れな、見すぼらしい日傭人ひようとりの支那傭兵と同じように、そっくりの様子をして。」と締めくくられてしまう。この後段が萩原朔太郎の全くの創作であることは、次項25にあげた、昭和7年1月18日の報知新聞の記事が(孫引きではあるが)重吉の落魄に続く死が創作であることをはっきりと物語っている。萩原朔太郎が国家の戦争に活躍し一度はもてはやされるが、身を持ち崩し不幸な一生を投げやりに終える、という個人を設定し、濃厚なの厭戦気分を込めた作品としている。この昭和10年という年は5・15事件と2・26事件の間であり、この年の2月に天皇機関説事件が起こり、これをきっかけとした国体明徴運動が激しく行われていく。その昭和10年の空気のなかでの萩原の戦争感が強く表現されているといえないか。

 

青空文庫にて全編を読むことができる。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/1771_45449.html

25『大国史美談. 巻7』1943年11月15日発行

25『大国史美談. 巻7 』

 

図書 北垣恭次郎 著 (実業之日本社, 1943)  

目次:原田重吉の其の後

昭和十八年十一月十日印刷

昭和十八年十一月十五日発行

五千部

定價二円二十銭特別行為税相当額八銭 合計二円二十八銭

著者 北垣恭次郎

発行者 増田義彦 東京都京橋区銀座西一丁目三番地

印刷者 肥塚一郎 東京都牛込区市谷加賀町一ノ十二

印刷所 大日本印刷株式会社 東京都牛込区市谷加賀町一ノ十二

発行所 実業之日本社 東京都京橋区銀座西一丁目三番地

 

「平壌の戦い」から

P130 前略 「しかるに中尉三村幾太郎の指揮する小隊が危険をおかして門下にかけつけ、同中尉以下十六名は大胆にも門側の障碍物を乗り越えて門内に躍り込んだ。敵は少数とあなどってこれを猛射した。よって同中尉以下十六名は急いで難を門の楼上にさけた。すると敵は楼に向かって弾丸を浴びせかけた。しかるにそのうちの一人一等卒原田重吉がひそかに楼をおり、手早く障碍物を取り除いて、中から門の扉を開け放った。味方の軍勢は一事にどっと門内に入り込み、群がり来る敵兵を追い払って乙蜜台にせまった。」 後略

略図・玄武門の写真あり

 

P134

「原田重吉のその後」

昭和7年1月18日の報知新聞に、同新聞記者が、玄武門の勇士原田重吉老(65歳)を、その郷里愛知県東加茂郡松平村日明に訪問した時の記事がのせられた。ここにその中から勇士原田の晩年の消息をうかがいえる部分を摘録する。・・・・上略・・・・「私(原田)は子供との時から、木登りが好きで入営してからは、器械体操で二度も賞与をもらいました。それが玄武門で役に立ったんです。今でもラジオを聞いていると、もう一度出かけて、やっつけてやりたいと思いますがこの病気(中風)の体では・・・・」

 目がうとくなったので、新聞は読まぬが、ラジオのニュースは一語も聞きもらすまいと、聞き耳をたてるという話。・・・・中略・・・・「日清戦争の時は、牛荘、田庄台までいきましたが、日露戦争の時は鉄嶺までいきました。何しろ満州は寒かったなあ。北満警備の人を思えば、病気とはいえ、こうして寝ているのはもったいなくてたまりませんや。」

 聞けば、玄武門で功名をたてたため、凱旋した当時は、お祝いに来る人があまりに多くて、とうとう飲み倒され、当時の金で千何百円という借金が出来てしまった。とやかくいわれながら、仕方なく舞台に立ったのも、この借金が返したいからであったということ。

 その後元の農業にかえり、戦場を突撃する心は、平時はお国の生産力増加に努力する心だとばかり、米、麦の増産に精進し、自給の燻炭肥料を案出して、普通一反歩七俵とる時に、その倍の十四俵の収穫に成功し、大正十二年、十三年にわたって、郡農会や知事から表彰されたほどである。したがって玄武門の勇士は、今では東加茂郡きっての篤農家として、村の尊敬を一身に集めている。・・・・下略・・・・

 

以上、報知新聞の記事である。農業にいそしんでいたとあるが、重吉の活躍の熱気も4月23日に三国干渉がおこるとあっという間に冷めてしまったのではないだろうか。

 

前項24に紹介した萩原朔太郎の『日清戦争異聞ー原田重吉の夢ー』は昭和10年の作であるが、この項で紹介した報知新聞のの記事(昭和7年)などは参考にされていないようだ。あるいは、テーマ的に敢えて無視したのであろうか?

 


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